表現の不自由 展

 

主催者側は「自由で差別のない社会」を目指す❗としての展覧会だ‼️と

反対側は『天皇制、日本軍「慰安婦」、強制連行、福島原発、政権批判……』が政治的な悪意である❗と

主催者側は検閲に当たる❗と

表現の自由」は如何なる場合も犯されるべきではない❗と

この展覧会の議論で僕が甚だ疑問なのは、『これは果たして「芸術」なのか🤔⁉️』という点

千利休にしても「侘び」「寂び」は当時としては『前衛芸術』であったはず

権力者の豪華絢爛を崩して打ち破り 新しい価値観の創造が利休の前衛力であった

利休が晩年に言い残した言葉に

「私が死ぬと茶は廃れる」と

正に、前衛芸術は一回こっきりであり、それを続けることは形式化して脱け殻だけに成る

赤瀬川源平氏が、「そもそもが前衛とは、みんなに対する犯罪的存在なのである。すでにある固まったものを壊してこそ現れて来る。その瞬間に、世の形式を倒す毒素として、一瞬の悪役として現れるのだ」

「しかし、今の世の中は、そこのところを履き違えることになった。一回性をもって特権的に許される瞬間の悪が何度も、という弛緩した状態が戦後民主主義温室効果となって現れている❗」と

『自由と平等』とさへ云えば何でも出来る❗という思考停止状況

一瞬の悪役が慢性的に成り、毒でさへあれば「前衛」である❗と

要するに、悪ぶることが新しいような倒錯に陥っている

前衛芸術が決して陥ってならない形式化が『表現の不自由』展である

千利休も『表現の不自由』展を観たら

「前衛芸術が廃れている❗」と

反権力を謳いながら自分たちが形式化して行き権力者に成り下がっている

権力志向の卑しい集団

君子和而不同、

小人同而不和。

付和雷同