Twitterを見ていると安倍晋三元総理が以下の言質を書かれてゐた
『皇室の存在というのは、日本の伝統と文化そのものなんですよ。今の民主主義とか、今の世界とか、今の世論とか、そういうことではないんです。つまり二千年続いてきた、この仕組みをどうするか、今の私たちの浅はかな知恵でこれを変えて良いのか、ということに対しては謙虚でなければいけない―』と
現代人は特に見える存在『有』として皇室を捉えていますが、実は捉えられない『無』である
国民は実生活があるが皇室には見えない『無』の世界に存在されてゐるのです
このことを見事に言い表してゐるのが
『老子 第十一章』
「有の以って利を為すは、無の以って用を為せばなり」
原文
三十輻共一轂。當其無、有車之用。埏埴以爲器。當其無、有器之用。鑿戸牖以爲室。當其無、有室之用。故有之以爲利、無之以爲用。
書き下し文
「三十の輻(ふく)、一つの轂(こく)を共にす。その無に当たりて、車の用あり。
埴(つち)を埏(こ)ねて以(も)って器を為(つく)る。その無に当たりて、器の用あり。
戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以って室(しつ)を為る。その無に当たりて、室の用あり。故(ゆえ)に有の以って利を為すは、無の以って用を為せばなり。」と
車輪の中心は車軸を通す穴が空いてゐる
この穴「無」があればこそ車輪の役を果たす
器が有るが そこに凹み「無」があればこそ器の用を為す
要するに、『無用の用』なればこそ 我が国民が有することが出来る❗
芸術はあらゆる表現が出来ると宣っている連中こそ、正に『無要』なり
無為翁